家族の生活

■夢と記憶の話

日が落ち始めた頃、僕は家を追い出される。古いアパートの軋む階段を降りて道路に出ると、小さな子供が一人でポツンと立っていた。ここにいたら車に轢かれてしまうかもしれないし、迷い子かと思い声をかける。するとその子は細い紐につながれた二つの赤い風船を僕に差し出した。

ありがとうと言って風船を受け取ると、体がゆっくり宙に引っ張られ、地面が少しずつ離れていく。見慣れた街の景色が、手の届かないほど遠くなり、吹き付ける風が強くなる。霞んだ夕陽が地平線に溶け込んで、三日月がすぐそばで冷たい光を放っていた。どこまでも広がる透き通った空と、足元彼方に見える街の灯りに、消え入るような悲しさが胸を満たし、不安が僕を包み込んだ。

風船を一つ、そっと空へと放つ。体がだんだんと重くなり、心地よい重力が僕を優しく地面に降ろす。ひときわ明るい星が、頭上で赤く輝いている。だいぶ風に流されたと思ったけど、見知った街灯がそばに立ち並ぶ。ガードレールに立て掛けてある自転車のハンドルに風船の紐をくくりつけ、僕は家へと歩き出した。

ほんの数分で家にたどり着く。古いアパートの軋む階段を上がり、ただいまと玄関を開ける。二つの顔が僕を迎えた。

ある日尊師と呼ばれる男が僕の家に住み着いた。その頃から父さん母さんの顔が少しずつ、見知らぬ何かに変わった。家を飛び出して、本当の二人を探そうと思ったけど、行くあてもない僕はいまもここにいる。彼らは以前と変わらない声で、今日も僕の名を呼んだ。

尊師はいつもニタニタと笑って、部屋の隅に座っていた。 僕は彼が話しているのを見たことがない。それでも毎日尊師と父さん母さんは、三人集まって何やら楽しそうにしている。僕はただ一人、ときおり家を追い出され、またこうして帰ってくる。

時計は八時をまわっていた。居間にいる尊師を残し、僕たち家族は台所で食卓を囲む。

晩御飯を終えたあと、尊師から話があると聞かされた。こんなことは初めてで、僕は少し驚いた。父さん母さんに連れられて、壁際に座っている尊師の前に立つ。そばにポリタンクが幾つか置かれていた。その中身を尊師の口に注ぐよう促される。

重いポリタンクを持ち上げて、笑った口の中に注ぎ込む。もっと、もっとと父さん母さんに急かされる。尊師のお腹がどんどん大きく膨らんで、鼻をつく臭いが湯気とともに立ち込める。

もっと、もっとと父さん母さんの声がする。膨れたお腹が溶け始め、喉も真っ赤に爛れていた。もっと、もっとと父さん母さんの歓声があがる。僕は次々とポリタンクを空にする。それでも尊師は笑顔のまま、嬉しそうに僕を見つめている。口から溢れた液体が、尊師の手足も体も溶かし、塩をかけられたナメクジのように骨までも、細く小さくなっていく。

全てのポリタンクが空になり、僕らは台所へと避難する。さっきまでいた部屋にもう人の姿はなく、ドロドロとした液体が床を浸していた。そして父さんは母さんの手を取って、お風呂場に消えていく。

僕は手に痛みを感じる。見るとゼリーのような尊師の欠片がところどころに付いていた。それが僕の肉も溶かしている。欠片を取り除こうとして指先で摘まもうとするも、触れた指にも引っ付いて、ネバネバと皮膚に穴が開いていく。お風呂場から水の流れる音が聞こえてくる。何とかしようともがけばもがくほど、深く深く体に食い込んで、腕を見ると真っ白な骨がのぞいていた。

助けを求めるように居間に目を向ける。すると床一面に広がった乳白色の液体に、まるで水面に浮かぶマーブル模様のように、鏡のような象形文字が浮かび上がっていた。そこに僕は間違って右足を踏み入れる。すると途端に足の裏が溶け始め、痛みで自分を支えられずに倒れこむ。尊師の溶けた体に刻まれた文字が、僕の体の下で滲み、もはや解読することのできない形の淵で、意味と教えが失われた。

カーテン越しに明るい朝の光が部屋を満たす。先程まで古いアパートに響いていた水の音が止まり、父さんがお風呂場から出てきた。母さんの姿が見えない。かわりにグツグツと煮えるような音が僕の耳の奥で鳴っている。父さんは台所に立ち朝食の準備を始める。そして見知らぬ顔に笑顔を浮かべながら、左半身しか残っていない僕に向かって、今日からは二人だけの生活だよと言った。