夏の終わりの授業

■夢と記憶の話

明るい教室の中で、高校生の僕は授業を受けていた。きれいに掃除された黒板には30センチ四方の写真が5枚並べて貼られている。それは人間のある動作を時系列に沿ってそれぞれ写したものだった。先生が教壇に立ち、僕たちに向かって授業を進める。

「多くの人達は時間の流れを感じ、世界を過去から未来へと流れる一本の川のようなものと考えている。だけどそれは間違っている。世界は時間軸上の全ての瞬間において、静止し不変の状態で存在している。それらはこの黒板上の写真と同じように、過去、未来という区別もなく、起こったこと、そしてこれから起きるだろうという区別もなく、まったく同時に、そして等質の性質をそなえ現前している。

ではどのように私達はいまという現在を認識しているのだろうか?

我々が感じているいまというものは、近くからこの黒板上の写真を見た状況と似ている。例えば2、3歩ほどの距離から見たときに、私達はこの5枚の写真を同時に認識することができない。視覚の範囲内にある写真のみが、光を媒体として脳に認識されるのである。

しかしこのまま、教室の真ん中あたりまで下がったとしよう。これらの写真は全て写真であるということにおいて同質に私の視覚上に存在し、私という個を規定づけるひとつの意識によって、いまという強い存在感覚を伴いながら包括的に認識されるのであるそしてそれらを経験に基づいて無意識に再構築することによって、私達は時間を自らのうちに創り上げているのである。人は自ら規定した時間と呼ばれる感覚に基づいて世界を認識しようとする。この自己規定された枠組み内で自己を認識しようとする行為において、情報は内部で発振し、存在と意識は自己収斂に陥いる。

よって我々に足りないのは時間という現象とそこに包摂される全存在を俯瞰する立ち位置なのである。そこから得られる新たな視点と景色によって私達は、、、」

黒板とは反対側の、教室の一番後ろの壁際に、スーツを着た男が立っている。彼は微動だもせずに、僕たちの背後から授業が行われているこの教室と生徒を見つめていた。

ある日突然、世界中に宇宙船が現れたのは去年のことだった。映画でよく見かけるような混乱状態はほとんど起こらずに、すぐに各国政府は地球外からやって来た新たなる種に対し、友好の姿勢を表明した。もしかしたら国民が気づかないうちから何年も、何十年もかけて、秘密裏に準備が進められていたのかもしれない。

彼らはそれぞれの国に輝く未来と発展を約束した。光に包まれた都市をも飲みこむ巨大な宇宙船とその科学力を目の当たりにして、人々は思いもよらずに訪れた新たな時代の幕開けにわいた。

当然のことながら、そんなに虫のいい話はないと危惧し、警鐘を鳴らす人々も現れた。街では小さなデモが開かれ、ときおりテレビでは自称専門家が注意を促したが、時が経つにつれ、そのような光景も目にしなくなった。

新たなる友人は言葉通り着々と約束を果たした。彼らは確かな見返りを求めもせずに、信頼に足る隣人として振る舞った。しかしある時、ただ一つだけ地球人に対し、要望という名目の条件を示した。それは、学校という形態をとる全ての場において必ず一人、彼らが公認するメンバーを同席させて欲しいというものだった。教師や生徒に干渉することはない。授業内容や制度に口を出すこともしない。ただそこに空気のようにいさせもらえればそれでいいという内容で、当初、人々はその意図がわからずに困惑した。そしてその困惑の正体を考える間もなく、彼らの要望は法整備され、こうして僕の教室の後ろに、一人のスーツ姿の男が立っている。

僕には彼が人間なのか宇宙人なのか全くわからない。見かけ的には自分の父親より少し若い気がする。休み時間にどんなに生徒が騒ごうと、彼は変わらぬ姿勢で、一日中同じ場所に立っていた。そして友人や同級生たちもまるで彼が存在していないかのように、視線を向けたり、声をかけたり、話題にあげることもしない。僕もそれが正しい態度だと思い、いつもと変わらない学校生活を、新しい友人が地球に現れる前と同じように送っていた。

授業は続いている。

「、、、よって我々に足りないのは時間という現象とそこに包摂される全存在を俯瞰する立ち位置なのである。そこから得られる新たな視点と景色によって私達は、、、」

先生の声が教室に静かに響く。

不意に僕は背後からの視線に気づく。その視線はまるで声や言葉のようにそこにあり、聞き取るのではなく、物理的にも存在せず、ただ理解するという現象の純粋な形態としてそこにあった。そしてそれは僕に囁きかける。

「見られていることに気づくことが大切なのだ。自分が見る主体であり、また見られる客体であることを知ることが大事なのだ。」

そして僕は、自分が見る客体であるのと同時に、見られる主体という存在に溶け合うように変化していくのを感じた。