朝を迎える

■夢と記憶の話

居間の長椅子に仰向けに横たわる父の左足から、石油が染み出していた。それは少しずつ踵の先から滴り落ちて、床に広がり、隣り合った台所を抜け、子供部屋に流れ着く頃には、向こう岸が見えないほどの青黒くぬらぬらとテカった川となっていた。ときおり水底からわずかに弾けた気泡か、あるいは窒息しそうになっている魚が水面から顔を出し、わずかでも酸素を求め、最後の息を吐き出したかのように、降り注ぐ光を吸い込むゲル状の油が微かに脈を打つ。秒針が音をたてて進んでいく。そろそろ映画が始まる。

遥か遠く海の向こうの砂に覆われた国で、男が僕に手を振っていた。幾つもの煙が立ち昇り、屋根は暗く煌めく雲に繋がっている。冷たく澄んだ光が雨の代わりに降り注ぐ。彼から送られた小包を僕は胸に抱えていた。中身を取り出すと、それは組み立て式の使い捨てカメラであった。フィルム、レンズ、カメラの本体がそれぞれ綺麗にビニールに包まれ、それを破くと梱包を解いたばかりのプラスチックの匂いがした。フィルムをはめ込みレンズを取り付け、カメラ本体の蓋を閉める。指先をシャッターボタンに軽く乗せ、片目を瞑り、ファインダーを覗き込む。そこには僕の朝があった。

母によって郵便受けから抜き取られた新聞の束が、食器とともに食卓の上に綺麗に並べられている。折りたたまれた広告を抜き出して、テレビ欄を広げる。インクが少しずつ迫り上がり、ゴツゴツと粗く削り出された方形の黒い石で組まれたビル群となっていく。僕はその隙間をロードバイクに乗り、全力で駆け抜ける。

そこかしこから警棒を持った警察官が止まれと叫びながら向かってくる。手首から足首まで、体を連なるバネにして、ペダルを漕ぐ。脚が悲鳴をあげる。伸び来る無数の腕を縫って加速する。破裂しそうな肺から錆びついた鉄の味がする。声援が聞こえる。音がだんだん遠ざかる。魂が肉体の速度に追いつけず、少しずつ後ろへと引き離され浮かび上がっていく。僕は小さくなる自分の後ろ姿を空の上から見送った。

ここから見ると石造りの建物だと思っていたものが、不規則にどうにか繋がったひとつの脊椎だということがわかる。そしてこの脊椎は同時に万里の長城でもあった。

父が目を覚ます前に、僕は何度も隅々まで、映画という文字を探して紙面を貪り見る。家族が寝静まった深夜1時過ぎ、僕はそれを見つけ出さなければならない。

無数の観光客が長い列をなして、壁の頂上に沿って進んでいく。蠢きながら踏みしめられる石畳からインクが染み出し、あるいは髄液となって、嵩を増し始める。人々の輪郭は徐々に溶け合いながらその姿は、インク、あるいは髄液の中に沈み込む。そしてそれは城壁から溢れ出し、脊椎、あるいは万里の長城をも飲み込んで青黒い鉛のような光沢を持つ一本の川となった。時計は2時をまわり、僕は川縁に立っている。

川を遡って歩き続ける。台所を抜けて、父の痕跡の残る長椅子に座る。ブラウン管から発せられる光が暗い部屋の中で僕の顔を映し出す。隣の寝室では両親と弟が身を寄せ合いながら寝息を立てている。僕は息を殺して画面を凝視する。

男が二人、座る僕の両隣に立っていた。彼らは冷徹に僕を叱責する。僕にはその理由がわからず、何も答えることができない。代わりに画面に映る青白い僕の顔が、パクパクと口を動かして、聞き取れないほどの小さな声で何やら答えている。そのことにより彼らはより一層激しく僕を責め立て、僕はさらに萎縮する。僕の視線の先で、僕の顔の奥で物語が進んでいく。3時はとうに過ぎ、時計は4時を少しまわっていた。取り繕う自分を見透かされるほど恥ずかしく滑稽なことはない。空が白み始め、カーテン越しに鳥達の鳴き声が聞こえた。

突然火災警報器が鳴り響く。僕は五月蝿いと感じる。男達は影の中に消えていた。映画はまだ終わっていない。

窓の外から早く部屋を出るようにと声がする。僕はまだ動けない。たぶん僕は、寝室に眠る両親と弟を残して、居間を飛び出るだろう。たぶん僕は、彼らを起こすこともせずに、玄関に向かうだろう。たぶん僕は、素手でドアノブに触れ、その熱で火傷をするだろう。たぶん僕は、ドアを開けられず、家からも出られずにテレビの前に座り、映画を観続けているだろう。たぶん僕は、全てが燃えてしまうことにホッとして、最後にはテレビを消し、台所を抜け、子供部屋に戻り、朝を迎えた明るい部屋で、ベッドに入り、眠りにつくだろう。