マットレス

■お話

仕事帰り、バスから降りた数歩先に、野生のマットレスが待ち構えていた。低い唸り声を上げ、牙を剥き出し、全身の毛を逆立てて、激しく僕を威嚇する。辺りを見回すも皆下を向いて、足早に去っていく。冷や汗が額から滴り落ちて、背筋が凍りつく。くすんだ乳白色をした四角い生き物が、鼻筋に皺を寄せ、じりじりと獲物との距離を詰めた。

目を合わせないように顔を背ける。背中から生えた恐怖が喉元に触れ、空っぽの胃が引き攣った。熔け始めた苦い唾を飲み込み、そっと後ずさる。靴底で小さな砂利が軋み、乾いた音を立てた。

眼前で漆黒の深淵が口を開いた。奈落の底から咆哮が噴き出し、せり上がった尻尾が破裂した。割れた空気に脊椎が痺れ、本能的に委縮した肉体がよろめく。右足の踵が縁石からはみ出した。

道路ではとめどなく車が流れている。逃げ場はどこにもない。このまま餌食となるか、あるいは車道に飛び込み溺れ死ぬか。答えの出せない問いに目の前が白くなる。その瞬間、視界の端に微かな表示灯が映った。思考するよりも先に体が翻り、左手が救いを求めて伸びる。そして停止した車の開いた扉の内に、鉛のような身を投げた。

扉が閉まり、車は走り出す。家とは逆方向を指し示し、後部座席から振り返る。通行人の悲鳴が聞こえる。それは口から真っ赤に燃え上がる炎を垂らし、ひと呼吸ごとに燻った灰を吐き地を揺らし、四肢を大きく突き出しながら追いかけてくる。幾人かが歩道から弾き飛ばされ、アスファルトの藻屑と消えるのが見えた。

車は徐々に加速する。絶え間ない流れに乗り、少しずつそれとの距離が離れていく。やがて悲痛な鳴き声が長くか細い尾を引いて、エンジン音に掻き消された。座席に深く体を沈め、放心状態のまましばしの間、車体の振動に身を委ねた。

結局、かなりの遠回りをして家に着く。どっと疲れが押し寄せ、考える気力も失い、いまにも膝から崩れ落ちそうになりながら鍵を開ける。握りしめたままの鞄を放り出すと、強張った掌に刻まれた縞模様が、指先に鈍い倦怠を残した。唇から息が洩れる。汗で濡れたシャツを変えるため寝室へと向かう。変わり果てた部屋がそこにあった。

蝶番は引き裂かれ、扉がまるで毛皮のように地を這っている。寝具が床に散乱し、照明は倒れ、棚に納まっていた本は見境なく地に悶えていた。壁紙は傷の奥で素肌を晒し、カーテンは屋外へとはためいている。仕切りのはずの壁に空虚な穴が覗き、庭に散らばる窓の残骸に砕け散った硝子がきらきらと、暗く濡れた街灯の光を映していた。どうやら先ほど会ったのは僕のマットレスだったようだ。僕のマットレスが脱走したのだ。

眩暈がする。ほんの少しの休みを取るために、埃を被った枕を拾い、原形を留める部屋を求め居間に向かう。電気のスイッチに指を掛け、最後の力を指先に込める。プラスチック音とともに暗闇から居間の輪郭が浮かび上がる。見慣れたはずの景色、その中で外套を羽織った見知らぬ現実が立っていた。テレビは裏返り、カーペットは捲れ、あるべき家具が消えていた。僕のカウチも脱走したようだ。

荒々しい鉤爪が残した原始的な格子模様に倒れ込む。身を横たえるためのマットレスとカウチはもういない。明日目覚めたらまず保健所に電話して、シャワーを浴び、身支度を整え、その後家を出て道の向かいからバスに乗る。九時には会社についているはずだ。予定を何度か頭の中で反芻しているうちに、胸の中で呼吸が浅くなる。このまま眠り続けることができたならと思う。遠くで何かが吠えている。枕がもぞもぞと動き始めた。