ノアの海底二万里

■夢と記憶の話

「272階まで潜るには氷が28個必要だ」

映像の乱れた青白く点滅するモニター越しに博士が言った。僕達は薄暗い放送室を飛び出し、僕は理科室へ、彼女は3階の教室へと氷を探しに走り出した。

校舎をつなぐ廊下の窓から外に目を向けると、辺りは全て水に覆われていた。毛だらけのセイウチのキバのような塔の付け根だけが、波間に揺れる光を受け、グラウンドがあったはずの水面から頭をのぞかせている。水底奥深くにまで突き刺さる、カルシウム質の塔の先で、博士は深海魚の明かりを纏い、僕達が来るのを待っている。

そこに電車が流されてきた。開いた後部扉から太った野球選手がこちらに向かって手を振っている。

「君らが何か素晴らしいことをするのなら俺は応援するぞ」

そう言って、彼は滴る氷を1個投げて寄越した。

氷は真っ直ぐに飛んできて、僕の掌に吸い込まれる。冷たさが背中にまで伝う。彼はどこか清原に似ていた。あっという間にずいぶん遠くまで流された彼に、窓から身を乗り出し、大きな声で礼を言うと僕はまた理科室へと急ぐ。

理科室では国防軍の研究者達が、プロパンボンベや酸素ボンベを引っ張り出し、雲状の氷を調合していた。そしてそれを薄くスライスし、丁寧に折り畳む。

「すみません、氷を少し分けてくれませんか?」

僕ははやる気持ちを抑えて声をかけた。

「何を言っているんだ、いま学食で怪物が暴れているんだぞ。ここにある氷が最後の砦なんだ。お前なんかに構っている暇などない」

白衣の男が僕に叫ぶ。

確かに怪物はすぐそこまで迫っていた。10メートルもの芋虫型の体躯を持ち、無数に蠢く赤い鉤爪を腹から床に食い込ませ、唸りながら口から透明な涎を撒き散らしている。

椅子も机も薙ぎ倒され、天井から埃が舞い落ち、校舎のガラスが割れる。黄土色のぶよぶよした尾の下で、ゆっくりと潰されていく国防軍の兵士達の乾いた悲鳴が響き渡る。

彼女を連れて逃げなくては。

一度に何段も階段を飛び越え、僕は彼女がいるはずの教室へと走る。息を切らせながら37組の扉を開けると、彼女は綺麗に並べられた机の間で、隣のクラスの増田さんとバドミントンをしていた。

「増田さんがバドミントンに勝ったら彼女の水筒に残った氷を全部くれるって」

額から汗をたらし、彼女は顔一面の笑みを浮かべた。

カーテンの向こうで、空はまるで夏のプールのように零れ落ちる光を放ち、笑う彼女の口元からのぞく白い歯が、キラキラと柔らかく澄んだ風に戦いでいた。